Feb. 28, 2003 


特集・デュンなバンドたち ISLAND
◎アイランド・ピクチャー

 デュンなバンドたちで筆頭にあげるべきは、マネイジュやカナダのフランス圏であるバスク地方のバンドなのかも知れません。しかしそれでは少々つまりません。というわけで、無謀とは知りながらもプログレの一流どころのアルバムから、デュンなバンドをボクなりにピックアップしてみたいと思います。

 それでアイランドです。しばらく聴いていなかったアイランドですけど、やっぱり彼らは凄い。ボーカル・パーカッション、ドラム、キーボード・ペダルベース、サックス・フルート・クラリネット等の4人で作り出されたとは思えない分厚いサウンドで、アルバムの導入部から圧倒されまくること必死の名盤です。このアルバムというとアンビシャス・ラヴァーズのピーター・シェラーの貢献度ばかりが取りざたされます。確かにこのアルバムの楽曲のコンポーズ及びアレンジと全てのキーボードをプレイするシェラーは、本当に才能豊かな人だと思わずにいられません。しかし久々に聴いて感じるのは、管楽器奏者とドラム奏者の貢献です。先のPFMの日本公演でも感じた通り、ドラム1つを取ってみても奏者の表現力が楽曲の味を豊かにすることをチョチョのドラムが教えてくれました。同じだけの手数が打てれば良いというモノではないというのは、彼のドラムとサポート・ドラマーを比較しても明らかでした。そしてアイランドのドラマーのドラムです。特にタムの響きが豊かです。そしてリズミカル。弾むようなドラミングが、楽曲に一層のアクセントを与えているように感じます。管楽器奏者もマルチに楽曲をリードしていって素晴らしい。一聴では抑え気味なリードにも感じますが、このアルバムにはこの表現方法なのだと思わせます。ジャズなどで朗々と鳴らす管楽器奏者がもてはやされる風潮があって、ソニーロリンズ等がその典型だと思います。クリフォード・ブラウンもスカッと鳴らす人だと思います。それに対して抑えて吹く典型が中期以降のマイルス・デイビスでしょう。ボクもジャズを聴きだした初期には、ミュートを使ったマイルスの抑え気味のペットより、抜けるようなスカッとしたプレイの方が好きでした。しかしジャズを聴き込むに従ってマイルスのミュートプレイにドップリ。マイルスとギル・エバンスから始まったとされるモードと呼ばれるコードではなく、音階を使った新しい演奏方法で奏されるマイルスのペットは、最初の頃は時に調子っぱずれに聴こえなくもなく、いまいちな感じがしないでもありませんでした。ところが多くのジャズを聴いていると、良く言われるマイルスの先進性が他のミュージシャンのアルバムと「ひと味もふた味も違う」ことが実感されます。その後このモード旋法は新主流派と呼ばれるに至るのですが、初期には異端視された向きもある新しいジャズの表現を率先して行っていったマイルスは本当に素晴らしい表現者です。正しくジャズの世界ではマイルスこそがイノベータであり、プログレッシャーだったとも思うわけです。
 話がちょっと逸れたついでに言っておくと、当時のジャズ界のイノベータはむしろフリー系のジャズ・ミュージシャンというのが通り相場です。オーネット・コールマンやアルバート・アイラーやセシル・テイラー、もちろんジョン・コルトレーン等々です。(電化マイルスと呼ばれる60年代終盤以降のマイルスも、かなりフリーキーなアルバムを発表していますが、彼のアルバムを称してフリーという風に言われたことはないように思われます。)たとえば御大コルトレーンですけど、彼が偉大だったのはハードバップからモードを経由してフリー期に至るまで一貫した表現力を持っていたことだったと思うわけです。ソロ楽器であるサックスでコードを弾くようにサックスを吹くことを目指した結果、シーツ・オブ・サウンドと呼ばれる独自のサックスの演奏法を開発したのがコルトレーンでした。(この奏法は、その後多くの管楽器奏者に影響を与えています。それでもコルトレーンのサックスは際だっています。)ものすごく細かい譜割でサックスを吹きまくる奏法が、「シーツを敷き詰めたようなサウンド」と言われるまでになったのです。60年代になると、もはやサックスの王者たるコルトレーンに対抗しうるサックス奏者がなく(もちろん別の奏法で全く地平の違うオールド・タイム・プレイヤーとしての巨人は存在しましたけれども)なると、比肩しうるプレイヤーのいなくなった黒人のジャズ・ジャイアンツたちがやがて一度は通るように、コルトレーンは自分たちのルーツであるアフリカン・ミュージックに目覚めていきます。そしてコルトレーンがたどり着くのが魂の音楽だったワケです。マグマのリーダーであるクリスチャン・バンダーが信服する魂のコルトレーン・ミュージックというのがこれです。(魂の音楽の代表的なアルバムを1枚上げよと言われたら、間違いなくボクは「クルセ・ママ」というアルバムを上げます。)その後フリーへと突き進むコルトレーンですが、コルトレーンの中にあったのは常に魂で音楽を奏でるということであったはずで、そういう意味では音楽は時々に変化していきながらも、音楽を表現する理念は最後に行き着いた「魂の音楽」を表現することに変わりはなかったのではないかと思うワケです。多くのフリー系ミュージシャンは既存の枠組みを破壊し、新しい音楽を創造するという方向性が一般的だと思うのですが、コルトレーンのフリーはそういった意味で他のミュージシャンのフリーとは一線を画していたとボクは思っているのです。
 話を戻しましょう。管楽器の奏法でのオールド・タイム的な発想だと、管楽器を演奏するに当たって抑揚の付け方がオーバーであることは重要だったわけですが、マイルスのようにバンド全体のアンサンブルを重視したミュージシャンもあって、アイランドの管楽器もそんな位置づけとして重要な役割を果たしているようにも感じられるということが言いたかったワケです。そういう意味では、やはりアイランドのメンバーは誰一人をとっても「ピクチャーズ」を製作するのに欠かせなかったと感じずにはいられないのです。

 さてギーガーのジャケットが印象的なアイランドは76年に収録・リリースされたのですが、先述のピーター・シェラーというキーボード奏者が「奇跡的に」短期間だけ在籍した間に収録されたアルバムだったことは、同作品のライナー等を読んだ方にとっては既に知られた話でしょう。同時に彼が本作の作曲及びアレンジを行ったのは有名な話ですが、アンビシャス・ラヴァーズの来日時のインタビューで彼が語ったことによると「若い頃に出した未熟な作品」で「子猫が爪を出してひっかくようなものだった」と、まるで「若気の至りで作ったアルバムのことはきかないでくれ」とばかりの同作に対するネガティブな感想を述べていて驚きます。しかし実際には驚異的な完成度を誇っていることは、各種のプログレ誌の掲載記事でも明らかですし、実際に本作をプログレ・リスナーが初めて耳にした場合でもネガティヴな評価を与えるとは思えません。
 アルバムがスタートした途端に聴こえてくるのは銅鑼の音と混声合唱。続いてスピーカーの両サイドから不安感をあおるフルートの音。そしてそれぞれが不協和的にボリュームを高めて突然鳴りやむと同時に、透明感の高いキーボードの早いアルペジオに取って変わります。(ここから2曲目に変わります。)このアルペジオの繰り返しが何度もテーマ的にリフレインされる中、ベース、ドラム、サックスが次々と加わってきて、アルバムの表情はジャズロック風に一変します。この辺りまでの切り替わりは瞬く間という感じです。またジャズロック風になってからのバンド・アンサンブルは、アメリカのハッピー・ザ・マンの2nd辺りを彷彿とさせます。4分過ぎからは、またテーマ的なキーボードのアルペジオですが、ここではソプラノサックスかクラリネットがソロを取ってきて微妙に導入部と異なります。この曲だけをとっても、とても自主制作アルバムというレベルではありません。3曲目はボーカル曲。この曲はボーカリストの声質といい、発声法といい、楽曲の雰囲気といい、スイスのサーカスを彷彿とさせるものです。同じスイスが出自であることは、こんなところに類似性があるのかも知れません。間奏部ではやはり一流のアレンジとテクニックを見せつけます。不協和的なキーボードとサックスのバトル的なアレンジは、アイランドのただ者でないところを存分に知らしめます。続くサックスソロでは、リザード辺りのクリムゾンも彷彿とさせます。4曲目はアコースティック・ピアノのソロから始まります。2分半辺りでブレイクがかかり、「おや……無音なのに曲が変わらない」と思っていると3分辺りでサイケなボーカルとフルートとキーボードが勝手な感じで、思い思いに散発的なフレーズを始めます。そしてしばらくすると唐突にバンド一丸となったヘヴィなサウンドへと一変します……という具合に、最初から最後まで飽きさせない構成が見事です。

 こうしてみると、DUNなバンドというにはアイランドはあまりにも格上な感じがしないでもありません。しかしジャズロック的なバンドアンサンブルやミステリアスな展開には共通性も見出せることも事実で、強引ですがDUNなバンドとして認定させて頂くことにします。

まだまだ続きます→

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